親の指導の賜物?

 実家に居る母親からメールが入っていた。メールの内容には先週の子育ての記事か何かについてだった。既に、私の中のものみの塔ストックは3月号を最後に尽きている。記事内容が全然解らない。急遽こういう事情を知っているJWの友人に連絡を取る。詳しい内容を聞いて初めて、何が言いたいのかを理解する。
 母親は、自分が子育てするときに

エホバの言うことを聞けば、幸福なの。だから聖書の教えを守りなさい。

という指導をしてきたのだが、その記事を見ると、性教育とかのこともエホバが言うからとか聖書に書いてるからとか、そういう事だけではダメで考えさせるように言わないといけない、と気が付いたらしい。「子供の心に上手く届いていなかったのでは?」という気がして自分の指導法への反省も込めて、私にメールを送ってきたということだった。まあ、ぶっちゃけ過去の事だからどうでもいいのだが。
 しかし、振り返って考えてみると確かに「書いてあるから」とか「ってエホバが言ってるから」という指導が多かった気がする。子供としては、そう言われたもののエホバが居るとか、エホバが近くにいて私に「これこれこう」と指示を出しているとは思わず。エホバという法律から母親が読み上げた訓戒として受け止めていた。それのせいか、そういわれてみれば、真面目にしている時だってエホバという存在を身近に感じたことは無かった。困ったときとか、大事な場面では勿論祈ったりしていたが、例えば親に話すように祈っていた訳ではない。良くも悪くも母親の教育方針が、今の私のような存在を生み出したのかも知れない。今となっては感謝だが。
 母親としては、規則としてのみ聖書を使ってきてしまい、心に到達させる教育ができていなかったのが反省だったのだろう。だが、私から言わせればそれのお陰で心までコントロールされることなく生きて来れたと逆に感謝である。ハルマゲドンだって信じてなかったし、雑誌身ながらまことしやかに注解こそしていたが、よく考えたら昔から親に付き合っていただけだったのだなぁ。