神は死んだか?

Arlecchino2004-11-10

 最近の書籍研究やものみの塔研究では、身の回りにある創造物からエホバの素晴らしさを再認識しろという内容が多い。強引な展開が目に付くので、今となってはふむふむと感心は出来ない。
 身の回りの創造物を目にする、天体や星々、川の水、森の小鳥どれをとっても素晴らしい。素晴らしい時計があったら作者が居ると考えるのと同じで、それらのモノにも創造者が居ると考えるのが普通、という論調だ。確かに時計は勝手に出来ることが無いと知っているから、時計には作者が居るって思うのだ。でも、身の回りの星や小鳥は、誰かが作ったとか勝手に出来たとか、人間レベルで解らないのだからその例えは少し違うような気がする。例えをするなら、条件を同じにしないと。
 そういえば、運命予定説についても説明があった。エホバは先を見通せ、我々人間の事も事細かに知っているという。そうなると、我々の未来が定まって居るのと同じだ。という考えになる。つまりエホバは人間を作った時から人間の未来、運命を知っていたという考えに発展させたものが予定説。これに対して、JW書籍ではエホバは先を見通す力があるけど、それをコントロール出来る。見ないと思わなければ見ないで済む。と述べられていた。
 例えでは、綺麗な歌を歌う力がある人が、四六時中唄わないでいいのと同じで、エホバも力をコントロール出来るというものだった。確かに、その通りなのかもしれない。エホバの力は確かにそうなのかもしれない。だが、未来が定まっているというのに代わりはない。エホバが見る見ないかに関わらず、本当なら予測出来るというならば、見ていないだけでも実際は予測の付く未来が進行している事になるからだ。
 “見る”という力を持つ人が、映画を途中から“見ない”からその映画の結末が定まっていないとは言えないというのと同じだろう。勿論映画と違って、現実の世界は個々人の決断によって未来が決められていく。だが、その決断すらも何を選ぶかエホバが“見れば”わかってしまというなら映画の様なモノだろう。そう考えると、運命はあるといえばあると思う。
 動物や天体が素晴らしいのは解る。でも、それが直結して神には結びつかないというのが私の正直な気持ち。それが作られたかどうかという証拠も、我々不完全者が簡単に解るような仕方で教えてくれないものだろうか?完全無欠な神であるならば、もっともっと、信仰を持ちやすい形で教えて頂きたい*1というのが本当のところ。かといって、科学のいうビッグバンでこの今があるとも思えない。ビッグバンもエホバ創造説もどっちも穴があり確実性に欠ける。早い話、神が居るか居ないかは良く解らん、と。いつもの結論に落ち着く。

*1:不敬といわれるかも知れないけど。