良心問題

Arlecchino2004-11-12

 おばさんやおじさん達の、集会後の座談会に耳を傾けていると「鯨」が話題に上っていた。聞けば北海道かどこかの小学校で鯨が給食に出たそうだ。それを聞いて、おばさん姉妹が「鯨漁が復活したのだろうか?子供達の信仰が試される事になる」的な事を言っていた。
 そも鯨が食べてはいけなかったのって血の処理ができないからだった。形だけでも血抜きが出来てないならそれは輸血と同義とされて、食べては行けないということだった。厳密に血が抜かれてるかどうかではなく、その行為があったかということだけだ。
 鯨は、確かに逆さに吊して血抜きはできないみたいだが、血抜きが出来てないものは臭くて食べられないらしい。最近のグルメブームによって、鯨がまた食されるようになった。今度は高級な料理として。提供する方も学校給食のようにまずくてもいいや、とはいかず美味しくなるような努力をしているようだ。店によっては調理段階で鯨の血抜きをして出している所も多いらしい。でも、JWにそれを説明しても目の前で食べたら大問題になるだろう。
 話は、発展して、ある一人の姉妹から今血抜きがなされてたら鯨を食べるのは是か非かが問われた。ムード的には非という感じで話は進んでいた。そんな話題が出た理由は組織が明確なOKを出していないからというものだった。
 こういうのって、いつもそうだが、乾杯問題にしても世の中の動きに併せて自らの良心で緩和するということが無いように思う。豚肉などの血抜きと同じで完璧に抜ける事などないから、処理したかしないかが大事なのだが一回でも組織がNOを出したら、以後組織がOKと撤回するまでは頑なに拒む傾向にある。酒の席で、乾杯がない飲み会開始など体験した方は解るだろうが非常に微妙だ。JW同士の酒飲み会は白けて仕方がない。
 結局、その座談会ではある程度有力な兄弟が「血抜きさえ出来てれば鯨って食べてもいいんですよ」等と言っていた。おばさん姉妹達は、自分たちの期待する答えでは無かったせいか怪訝そうな顔をしつつも、相手が長老だということで遠慮深げに納得していた感じだった。
 JWの多くが形式面を重視しているから、こういう事が問題になる。パリサイ人の額帯を批判したり、安息日の過ごし方をちゃんちゃらおかしいと罵倒しながらも、自分たちは形式的な文言に見事に捕らわれている。そこを突かれるとそれは悪魔のささやきだと逃げる。一体どっちがパリサイ的なのだろう。