古い性格

Arlecchino2004-11-17

 よく、子供の頃疑問に思ったことがあった。子供達は「○○できてない!」と怒られたりするのだが、それを言ってる側の大人は意外にもそれが出来ていないのだ。その事を親に追求するとそれは長いこと世で生きてきたから、仕方がないと言われた。
 しかし、それは詭弁ではないだろうか?自分たちはできていないけど、あなた達は出来るというのでは話が通らない。そもそも、真理を学んで性格が豹変した人なぞ居るのだろうか?経験では喧嘩早い人が平和になったなどという話は聞く。しかし、実際どこまでのレベルで改善されているかは怪しい。もともと殴るなんて野蛮な行為は世の常人だってしないものだ。それを改善したからといって真理のお陰というのもなんか説得力に欠ける。元から悪いモノを正常レベルに持っていっただけで、より良くなったわけではない。
 性格の悪さが治らないと言うところはJWとして生活していると随所に見ることが出来る。例えば引っ越しの時。普段は見向きもしないJW達がずけずけと、我が物顔で他人の家に入り込んでくる。「手伝う」という名目で人の新しい家の中を隅々までチェックしていく。こういうのはJW以前の問題なのだとは思うが、JWとして人の気持ちを思いやるということは学んでもそれを改善するには至っていない。
 昔我が家で家庭聖書研究を行った時があった。未信者の父に無理矢理司会させて行わせていたのだ。毎週最新の雑誌とかから家族がそれぞれ気になった記事が取り上げられる。温和になりましょうとか、人に親切にみたいな記事をやるのだが、それを毎週毎週扱っても家族の中の誰かが進歩した試しがない。家族研究のあとに家族で「そこができてない、あそこができてない」と言い合って大げんかになることも多かった。
 大会の後母が「○○ってプログラム良かったわね。」などと喜々として話すのだが、じゃあ母親が1から2の様な微々たる具合でも良いから、悪いところを改善しているかというとそんなことはなかった。母は私が生まれた時から今にいるまで、まるで性格の何処かが変わったという事はなかったように思う。「へー、大会で良いこと学んだなら、まず自分の行動改めれば?」と親に言って大げんかになった事もあった。
 結局、人の性格の善し悪しは聖書を学んだからとかではなく、それ以前の生き方で決まっているように思う。性格がいい人は最初からいいし、悪い人は聖書を学んだからといって改善されることはない。もし、改善されているならJW会衆内での内ゲバにも似た凄惨な争いは起きていないはずだ。私の今の性格も、成長過程で勝手に身に付いたものであり、決して聖書を学んだからこれがこう変わったという具合に、画期的な変革があったわけではない。まさに生き証人。