愛と挨拶

 以前にも書いたのだが、最近また思ったので愛と挨拶について。奉仕会の集会ではいつも、愛と挨拶が発表される。愛と挨拶って、昔からある習慣。本当は世界的クリスチャン愛の形成というのの現れとして出てくるんだと思う。
 だが、実際のところこの愛と挨拶は「どこかに出かけるんだけど、あ、集会はさぼりませんよ」的な意味で用いられる場合が多い。また、ベテルなどを訪問したときは「どうだ、ベテル行ってきたんですよ凄いでしょ。」的なステータスとして用いられる場合もある。
 ところでこの愛と挨拶、人によっては区別する人間が居る。うちの会衆にいるとあるシモベと長老は、出張講演などで貰った愛と挨拶と旅行者などの愛と挨拶は区別して発表する。なぜそうするのか理由を聞くと「出張講演は会衆の代表でいく公式のモノ。だが、旅行の愛と挨拶は個人の勝手な都合で非公式だから。」というものだった。
 出張講演といったって、誰かが頼んでるから行くものであり、あれは半分会衆の長老同士の接待みたいなものになっている。呼ばれたら呼び返したりという感じで。頼まれた形式をとっているがちょっとした旅行と同じだ。出張に行くことをステータスにしている輩も多い。
 手続き上の点では個人の旅行とは異なるかもしれないが、交わったりして世界的兄弟愛を分かち合う点では実質において差はないはず。出張講演だけを公式として、個人の愛と挨拶は個人のだから駄目というなら、差別にならないだろうか。こういうコトを言い出す人は決まって、シモベや長老という役付が多い。偉くなると昔のコトを忘れてしまうのだろうか。
 建前では、一般JWと長老などには差は無いことになっている。しかし、こういう風に長老とかを位として見てしまい、一般JWを平信徒の如く不公平に扱うのが本音であり、組織化した今のJWの実態。
 「良心の危機」なぞを見ていると、昔のJWも最初は熱意があったり、組織化する前は結構個人の信仰を大事にしていた感じ。だんだん組織が肥大化してきて、それに合わせ統率を計るために規則で雁字搦めという今の形になってきた。この問題、今の統治体たちが全員居なくなったら、いつか改善されるんだろうか・・。