正当化事由

Arlecchino2005-02-04

 自分のやることを正当化しようとする人がいる。ここで言う正当化とは、「今ここに自分がおり、これこれの事をしていることの意味。」という感じの意味で捉えて頂きたい。世の中には無駄に思えることも多い。いや、実際無駄なことが多い。それらは何か生み出すのだろうか?
 心理学*1には強制承諾(forced compliance)という考え方があるらしい。かみ砕いて言えば、他者に面白くない課題を課して「その課題は面白かった」と嘘をつかせると、本当に面白かったと認知するようになる、というもの。有名な実験があるらしいがそれによると

osakana日記より
 あるつまらない単純作業をさせられた被験者に「この実験は楽しかったと他人に言え!」と金で強要する。この時、1ドルで強要された被験者と、20ドルを渡された被験者とでは、どちらがより「あの単純作業は楽しかった」と思うようになるだろうか。

答えは、1ドルを渡された被験者である。

20ドルもらった被験者は、つまらない作業をさせられてしかもそれが面白かったと他人に嘘を吐いたけど、まぁ20ドルもらえたからいいか、と自分を納得させることができる。でも、1ドルを渡された被験者は、つまらない作業をさせられ、しか嘘を吐かされたのに報酬はほとんどゼロである。とても理不尽だ。

だから、1ドル組は「あの実験は無意味じゃなかった! 楽しかったんだ!」と自分の認識を変えてしまうことで鬱屈する不満を解消しようとする。さらにとてつもなく厄介なことに、自分が認識をゆがめてしまったことに全くの無自覚である。人間て、自然に「ポジティブシンキング」やるんですよ。

 だそうだ。思い返してみれば、人間は何かと自分を正当化する嫌いがある。この、強制承諾ってやつもその一環ではなかろうか。自分のした無駄そうな事、それには意味があると信じたいと願う心が、ゆがんだ正当感を抱かせる。
 では、一見無駄な事が絶対的に無駄だったかというとそうでもないと思う。この実験はまあ、無意味な労働をさせているだけという前提に立っているが、実社会の労働には必ず何らか意味がある。そこから何かを見いだすことは、心がけ次第でいくらでもできる。過酷な肉体労働だって、何も考えないでするより考えてやれば全然結果も能率も違う。
 卒論を書く時や仕事などで徹夜の単純作業があるが、あれだって意味がない訳ではない。作業自体は単調で意味が無いかもしれないが、それを通して学べることも多い。また、その時間が自信に変わることも多い。ただ、それを意識しすぎたりそこに意味を求めすぎると変な正当化がおこる気がする。
 まあ、結局は何事もバランスが一番と言いたい。単純作業に意味が無いこともあるし、あることもある。何でも正当化するのも考え物だが、何にも意味がないと諦めるのもどうかと思うというだけのお話。

*1:例の院生とは全く関係ない。単に興味を惹いた日記だっただけ。