記念の日

Arlecchino2005-03-24

 今日は記念式。そしてこの会衆に交わる最後の日。様々な方達から挨拶を頂く。同時に物を差し上げた方達からもお礼を言われる。誰からも「奉仕楽しかったですね。」と言われず遊びの思い出ばかりだったのが私のこの会衆での生き方を表している気がする。
 口うるさい長老の兄弟が近づいてきて私に

兄弟は結局この四年で霊的に進歩しなかった。つまりはこの四年は無駄になったということだよ。これから新しい会衆に行ったら真剣になって長老を目指しなさい!それじゃないと男子としてエホバの民に居る意味はないよ。

と怒鳴られ気味に別れの挨拶を切り出して言った。余計なお世話。楽しい物ですよ平信徒ってのも。これ以上に責任背負い込んだらさぼりにくいでしょうが。残念ながら兄弟の気持ちは私に届きません。
 他の方々に滞りなく挨拶を済ませ集会場を後にする。食事に誘われたが引越の準備が全然終わってなかったのでそれは丁寧にお断りさせていただく。明日はいよいよ引越。気合いを入れないと片づけが終わらなそうな感じ。

油注がれたもの


 実家の会衆に記念式の度に物議をかもし出すお方がいた。60過ぎの兄弟なのだが、彼は開拓者で長年忠実にこの組織に使えてきた。昔は奉仕の僕*1。会衆内でとくに目立つわけでもないし、派手なことをする人でもないがやさしい人だった。
 そんな彼は記念式の度に表象物を召し上がってしまうのだ。本人は14万4000人しか食べてはいけないと解った上で食べていると思うので、きっと彼は油注がれたものなのだろう。
 所がそれを長老団をはじめとして、他のJWが快く思わない。記念式の前くらいの会衆の必要では「表象物を油注がれたもの以外食べてはだめ」というプログラムを扱ったり、記念式というと何かにつけて食べてはだめということを強調していた。陰口もたたいて「不遜な人」というレッテルをその兄弟に貼り付けていた。
 きっと、この兄弟が元特開者とか、元べテラーとか地帯監督だ、とか1914年くらいから学んでいるとか、そういう肩書きがあれば皆も納得するのだろう。だけど、ただの名も無き兄弟だとそれは許さないということか。
 講演などでは「どうして14万4000人の人たちは、自らが油注がれていると解るのですか?」みたいな疑問に対して

男性は女性との性差を認識できます。そして自分が男性だということを自ら理解しています。当然、女性の服装をしたいとは思いません。それはなぜか?ということは口ではなかなか説明しにくいものです。油注がれたものもこれと同じで、大群衆と油注がれたものの違いは自分でわかります。自分が男性だと思うのと同じで油注がれていると感じる。

的な説明をしていた。こういう説明をしているのだから、この兄弟が食べるのも自分が注がれたものだと認識しているからだろう。だったらそれに文句を言うのはおかしいことだ。
 その兄弟は、ことあるごとに笑い話のねたにされている。「うちの油注がれたお方だよ」などといわれて嘲笑の的に。こういう姿を見ていると頭を傾げたくなる。JWの教義に乗っかって話をするなら、本当にこの人が油注がれた人だったらどうすんだろ?外見では確かにそうは判断しにくいが、自らが感じているなら建前だけでも認めてもおかしくはないと思う。こういうのを見てても、真の信仰があって油注がれた人を認めているのか、外観や肩書きにだまされているかがわかる。そういうものだ人間って。

*1:霊的な問題ではなくて、肉体的な老いで降りた。