零的二世の恋愛入門Ⅱ

Arlecchino2005-06-25

 さて、外でどうやって付き合うかの話。この話は非常に躓かせるので、JWとして真面目でなくても、恋愛系に奥手な人は見ない方がいいかもしれない。断っておく。不思議なもので教理にいちゃもんつけたり、兄弟姉妹の事を憎んでいても、こと恋愛の事になると奥手で、性とかはタブーにする人が離れJWには多い。背教にしても性にしても罪の尺度は同じ気がするのだが・・だから、性だけわーきゃー言う論者は私からすると意味がわからない存在。
 それはさておき、本編。外では学校の中に居るより気を遣う事が多かった。女性とそれっぽい場所(遊園地や繁華街)にいれば言い逃れは出来ない。遊園地に二人きりできててタダの友達ですも知人ですもあったものではない。JWが相手ならば「黙ってて下さい」で済むが、世の子ともなると黙ってるも何もない。通報されるのがオチ。
 私自身、JWとデートしたことはあったのでその時から知り合いに会わずに行動するにはどうしたらいいかに頭を使っていた。昨日の無駄なことはないの話ではないけど、やはり無駄なことはない。JWは実は行動が読みやすい。奉仕の時や集会の時など、決まった時間に行動していることが多い。また、奉仕区域もどこか解ることが多いので、どの地域を避ければいいかある程度予測が付く。
 更に、奉仕場所へ行くルートなども決まっている。意外と狭い道や裏道を使うので、JWと会いたくないなら意外に大通りを通ると有効なのだ。集会の時間はある意味ゴールデンタイムである。その時間は完全に集会場に拘束されているも同じなので、外で会うことはまず無い。私は、デートするときよく集会の時間帯を利用していた。
 JW自体が街から居なくなる時もねらい目。大会の日などまさにその時である。夏の大会時期にデートなどをするのはとても気持ちが良かった。こう考えるとまるで、JWの活動をしていないようだが、そこは上手いことやりくりして大会にも顔を出していたし集会も支持していた。不真面目者はマークされるが、ある程度真面目を演じていると人は疑わないものだ。
 真面目なJWカップルから聞いたJWに会わないデート術というのもあった。それは週中ではなく週末にデートに行くこと。なぜなら、JWの若い人は週中意外と暇があるので、外に出歩いていることが多いのだ。しかし、こと週末となると野外奉仕に出かけて繁華街に繰り出すことが少ない。発見されたカップルは往々にして、週中デートを敢行しているカップルだった。私自身は、JWとのデートで発見されたことは一回もなかったし、集会場でも話さないで裏で連絡を取っていたので表向きにも勘ぐられることがなかった。
 そんな私だったが一回だけ、非常にピンチにたたされたことがあった。世の子と付き合って居るときに、女の子を家に連れて行った所を見られてしまったのだ。しかも若い姉妹に。再訪問かなないかで近所にきていたようだが、私の家の前で目が合ったので軽く会釈をした。内心は心臓ばくばくだったのだが、気にしない感じで女の子を伴って自宅へ。やっばーと思っていたが、案の定次の集会でいきなり中老団に呼び出された。最初は回りくどく霊的な話をしていたが、最後はもうずばりその事実のありなしについて尋ねられた。
 一瞬頭の中でどういう結論に持って行くか迷ったが、状況を見られている訳ではないので、適当に話は作れると思い、学校の書類を取りに来て貰ってる所だったということにした。仕事をしてても、女性と一緒に動くことはありますよね、野外奉仕だって女性と二人ですることありますよね、という感じで女性と二人でいることがそんなにおかしくないという方向に話を持って行った。また、私が見られた姉妹に会釈したのも幸いしたようだ。あすこで、逃げるように消えていたら疚しい事があったと解釈されかねない。私もそれを思い出して、疚しくないから挨拶したと弁明した。長老団は皆一様に納得して、訴えてきた姉妹の訴えを退け私は無罪放免となった。
 幸運というかなんというか、言い訳を考えるときはその時の状況をよーく思い出して、使える材料は全て使うことが大事である。結局JWは自白主義なので、自分から自白しない限りは余程の決定打でもない限り推察の域を出ない。そこで堂々として正当な根拠を出し論証すれば疑われることも叱責されることもない。
 今日の話は現役でもややJW辞め掛けているJWが見ても少し疑問に思ったり不快に思う内容かも知れない。こんな小細工してまでなんでJWに居るのか?しかも両方にいい顔して良心が痛くならないのか、など色々指摘は受けそうだが、良心は痛まない。なぜなら、元々信じていなかったから。そして、信じてない中でも家族との調和は大事にした。「私は被害者だ!周りのことなんか知ったこと無い、好き勝手やらせて貰う」という考えも結構だが、私はそれをしたくない・・というか出来ない。小心者なのかもしれない。周りを巻き込んで壮絶な結果を引き起こすよりは、調和を保ちつつも自分の好きなことをする。それが私流。周りに遠慮して好きなことをできず悶々とはしていたくない、まず試してみる。しかも周りに気を遣いながら。それをしている(た)だけ。恋愛にしても何にしても同じ。