聖書通読

Arlecchino2005-12-03

 ここ数ヶ月ろくに集会に行ってないから、全然今のJWの事が解らない。何か画期的な事をしたのかと、良く覗かせて貰うサイトを見てみた。ここは現役JWの情報が満載なので、その気になれば会話上は集会に行ってる風に見せることは幾らでも出来る。もっとも、詳しい人と話したらひとたまりもないのだろうが。
 そんな中見ていて聖書通読に目がいった。聖書通読というと、JWなら一回は聖書を通して読めなどと言われたことがあるのではないだろうか。元々聖書の聖句に心引かれて入信したならいざ知らず、親にヒモ付いて入信した二世にはあまりピンとくるものではない。
 かくいう私も何回か子供の頃チャレンジさせられたが、毎回創世記〜出エジプト位までは結構読み進められるものだ。レビ記くらいから徐々に面倒くさくなり飽きてきて機械的になる。まだ、性に関する掟とか、物語的なところとかアブサロムの若干エッチなところとかは楽しいのだが、詩編に入るともう絶望的。何も面白くなくなる。思いっきり詩的な話が多くなったりするので飽きてしまう。
 親に毎晩、何処まで読んだかカラーペンでリストにチェックさせられたので段々面倒くさくなり印だけ塗り読まない事が多くなった。そんなこんなで新約聖書の部分に入りそこから更に機械的になる。暫くしたら親も把握するのに飽きてくるのでそこを見計らい終わりにする。
 そんなこんなで一回と言えども聖書を通読したことがない。というか実は聖句なども殆ど覚えていないのが実情。バプテスマを受けるときは片っ端から書き込んだし、注解とかもその都度索引から引っ張ってきて注解しただけ。なので、自慢ではないが言える聖句といえば創世記かエフェソスくらい。そんな人間でも一時期は模範的な良い兄弟などと言われるのだ。幾らでもできるものだ模範的な振る舞いなど。
 一体聖書通読などなんの意味があったのだろう。あれも今思えば思いっきり親のエゴだった。自分が親になるとき子供にエゴだけでモノを言いたくないものだ。そんな状態で読んだ聖句なども全然頭に入らない。ま、子供にはJW教育をしないつもりなのでその心配も杞憂だろうか。