JW的ダ・ヴィンチ・コード感

Arlecchino2006-06-18

 最近ちまたで話題のダ・ヴィンチ・コードについて、この日記でも取り上げないわけにはいかないだろう。いったいなぜ世間があの物語にはまるのか、百聞は一見にしかずということで映画を見に行ってみた。映画自体は安いサスペンスドラマの様でさして面白くはなかったのだが、イエスの秘密という観点では面白かった。
 この手の問題は歴史のある宗教や組織にはつきものだろう。陰謀があるとか、隠された秘密があるとか。アポロの月面着陸がウソとか、9.11がアメリカの陰謀だとか、エール大学のスカル・アンド・ボーンズなどその手の話は枚挙に暇がない。
 興味を持ったのはイエスマグダラのマリアが夫婦であって、子供が居たという話。JWの教義だと、そう言うことは絶対許されないので、そんな話話題にも出来ないだろうが離れている今となっては興味が沸く。実際どうなんだろう。そう言う可能性もあるしそう言う可能性が無いともどちらも言い切れないと思う。
 そもそも、あの時代の事なんて、どこの誰が実証出来るというのだろう。イエスが居たという事実は歴史的にもかなり確度が高いということでほぼ間違い無いようだが、イエス人間性についてはかなり議論が分かれているらしい。
 面白いのが、今は外典とされているフィリポの書やマリアの書などが現行の聖書の中のイエスとは全く性格が異なるということ。名前は忘れたが、何かの会議で聖書の聖典はこれとこれとカトリックが決めたのが原点となって、今の聖書がある。当然その際に、自分たちの教義にそぐわない内容は除くだろう。
 私が、カトリックだったとしても、同じ事をすると思う。会社でプレゼンをする時だって自分の主張の正当性を導くのに引用する資料はどれもこれも、自分にとって都合が良い資料ばかりを集める。それと同じだろう。しかも当時は、教義で国をまとめるという目的もあったわけで、尚のことそうするだろう。
 イエスの子孫が今も生きているとか、それをカトリック側が除こうと躍起になっているとかそこら辺はかなり物語っぽいのだが、イエスに子供が居たことが不都合になってその記述を除いた可能性はありそうだ。大体、今のこの時代だって300年前の事って「100%正しい」と言いきれる事はない。今見たく、保存できる媒体が随所にあればともかく、2000年前の事なんて、何が真実で何が嘘かなんかわからないだろう。
 こういう話題を、色々話してみたいのだが、JWの中に居たら背教みたいな感じで話しすらできないだろう。なぜjJWの中に居ると、文字通りの研究ができないのだろうか。研究とは名ばかりの協会の出した出版物から協会の思想に従った発言しか許されない。そんなもののどこが研究なのか。自由闊達に意見を言い、皆で議論をして”真実”へ近づくことが研究だと思うが。ま、それを宗教に求めてはいけないんだろう。宗教は信じること。研究は疑うこと。私は聖書に関しては後者の視点の方が興味あり。