何事も練習の場

Arlecchino2006-07-22

 文書力や表現力についてのコメントを頂いたのでそれについて書いてみたいと思う。私自身、小学生くらいの頃から作文が上手いと言われたことがあった。しかし、私の場合明るいのびのびした小学生的な模範的な作文ではなく、多少現実や皮肉を込めたちょっとませた作りだったため、最終選考にのこるものの、小学生としてはいかがなものかという先生の判断で最終的には、落選することが多かったように思う。今も昔も変わらないと言うことか。
 思えば神権学校の場をいつの頃からか実験の場として捉えていたように思う。熱意がないJWは神権学校なんて所詮・・という考え方が多いように思うが、あれだってよくよく考えると凄いことなのだ。ああいう風に100名近くの聴衆の前で自分の講話を聞かせるなんて早々ないのだ。
 父親とかと話をしたが、大会社に勤めていた父ですら、そう100名の前で話すことなど滅多にないと言っていた。それはそうだろう。通常100名の前で話すなんて相当高位な役職付きだけだろう。そういう意味でも、ああいう場で話すことが出来るというのは貴重なのだ。
 私が特に力を入れたのが大学時代だった。完全に心はJWから離れていたが見せかけ上は真面目JWだったので、当然神権学校の割り当ては回ってくる。渋々これをこなすのは行くだけやるだけ時間が無駄になり。折角なら自分を向上させるために使いたかった。
 色々な方法を試した、要は神権学校もプレゼンテーションも根幹は同じなのだ。話している内容が違うだけで、話の組み立てや聴衆に趣旨を解らせるという意味では全く同じ。神権学校が下手な人はプレゼンも下手に違いない。JWの場合は、JWの理論の範囲内で話を組み立てて自己の言いたいことをPRすればいい。
 違い会衆に行き知っている聴衆が減ったせいか、余り緊張しなくなったので冒険的に色々なことを試した。今まではしなかったのだが、聴衆を笑わせることをしてみたり。聴衆の話の展開を良い意味で裏切ると笑いは生じる。この笑いを狙った仮説を実践して成果が得られ実証できると面白い。自分のねらい通りに笑いが受けるのは気持ちがいい。これは今の社会生活でプレゼンすることだけでなく会話する中でも非常に役立っている。
 他に、原稿を持って行かないでその場で即興で話を作ったことがあった。勿論ある程度話は頭の中で組み立てていくのだが、本当に原稿はいっさい持って行かず、その場で話を組み立てて作っていく。これも、万が一原稿を無くした時とかの為を想定した上で慌てないでプレゼンできるかなどの練習の一環だった。
 JWに居たからというわけではないが、物事を上手くたとえることが上手くなった気がする。就職活動でもあなたはどんな人ですか?と聞かれてもその場に居る人が皆納得するようなたとえ話を作り、実に上手く自分を描写出来たと思う。
 そんなわけで、JWの神権学校は私にとってはかなり勉強になった場だった。ああいうの一つをとってもそうだが、強制的にしろそういう境遇に晒されてしまっているならば折角だから楽しまないと損だ。楽しまなくてもいいが、自分の為に役立てた方がいいと思う。文句を言うだけでなく折角なら活用しましょう。JWといえど学べないことはないです。