一人でも

Arlecchino2006-07-29

 信仰を捨てると、一言で言うがその捨て方は様々だ。男性と駆け落ちしていなくなったり、たばこに手を出してとか、教理に疑問を持ち真っ正面から対立したりと色々。しかし、離れても戻る人がいる。それはいったいどういう心理なのだろうか。
 感情という言葉があるとおり、人は感情に流される生き物だ。誰かを好きになり、それを押さえられなくなると人間は感情が先に出て感情のままに行動してしまう。私が見ていた中でも、結構若い年の人が男女に限らず恋人が出来てそちらに流されて、姦淫を犯し何が原因か発覚してそのまま排斥になる人が居た。
 思うに排斥という方法は大概が、組織からの破門だ*1。故に、実は内心組織に未練がある人もいる。また、自然消滅ならともかく排斥はもう完全に組織からいや、友人親族からも絶たれることがある。これを一方的にされると辛いのだろう。意外に排斥されると戻ってくる人も多い。JWはそこを逆手にとって、望みがある人を排斥にするとかと言うがそれは都合良く解釈しているだけな気がする。
 外に出て初めて解る親の愛、なんて事を言うがそれは確かな気がする。が、それも色々個人差があるだろう。自分一人の力で生きて居ればさほど親のことは気にならない。精神的、物質的に自分一人で生きていけないとやはり親に頼りたくなり、ひいてはJWに戻りたくなるのだろう。
 辞め方もあるだろうが、自分が確固たる確信があり、組織の言うことの虚構を見破り納得をした上で進路選択をしたならば、その後結婚するあり子育てするなりで全く問題にはぶつからない。ぶつかっても、自分なりに色々な方法を取り解決していく。そこで、またJWに頼るあるいはJWが恋しくなるのは、一時期の感情でJW離れしただけで、本質的には納得していないし、未練が残っているのだ。
 私は、それをわるい事とも思わないし、未熟だとも思わない。人にとっての居心地は色々なところにある。仕事が忙しくて寝るヒマがないなんて人でもその職場が好きな人が居る。かたやノー残業で余暇が充実している仕事を嫌う人もいる。結局はその人の考え方や力量による。激務でも仕事にやり甲斐を求め楽しめる人もいれば、激務だからと即辞める人もいる。ノー残業が苦痛で辞める人も居れば、ノー残業ならなりに楽しみを見いだす人もいる。
 どちらがいいとかどちらがわるいなどと言うことはない。その人の選択だ。ただ一つ言えること・・・私は組織には多分戻らないだろう。だって、一人で行けてしまう人だから。

*1:自分から排斥を告白する人も居るが。