告白

Arlecchino2006-07-31

時というのは突然訪れる。予定せずいきなり訪れる。それを人は運命とか定めというのかもしれない。今回私の身の回りで突然それはきた。
それというのは、JWとの別れである。私が、不活発になって久しいのでいまさら排斥とかという問題にはならないが、家族とかの関係でいえば関係がない。この、土日で父と母が大阪へプチ旅行にきた。
一緒に何か食事をしようという話になり、色々なお店に出かけたりして大阪を案内した。その帰り道に、車の中で母とJWのことで話になり、そこで会話の成り行き上「信じてない」という一言を発してしまった。
母は、「え?うそでしょ」という顔をして確認をした。そこで間髪いれず私はまくしたてた。JWの矛盾。信仰の自由とは本当に自由なのか?という点から勢いがありつつも冷静に淡々と語った。母が自分の母(祖母)の土着宗教を否定して今のJWを選んだように私も自分で自分の歩む道を見出したことを述べた。母の反論の論点は矛盾無い思考で考えれば絶対に勝ち目は無い。なぜなら、JWの論理自体は矛盾が多いから。だが、その矛盾を潰せる一言がある。それが信仰だ。それがあるから信じられたり納得する事ができることもできすが、信仰がなければ、まったく意味がないことも多い。母はそこを見落としているので、矛盾の多い論理展開をしてくる。
母は言った

でも、私は強制しなかったよ。伝道者だってバプテスマだってあなたが受けたいというから、あなたの信仰で受けさせたのよ。あなたが選んだ道なんだからいまさら何をいうの?

と結構冷静な口調で。
それに対して私も答えた

うん、確かにあの時あの狭い視野で見て、あの世界観ではそれは正しいと思った。だから決定した。それから月日は流れてもっと広い世界が見たとき疑問をもったんだ。だからこそ、辞める決意をしたんだ。それにね、法律とかでは未成年は保護されているし、未成年の決定は反故にできるように規定がある。それは、それだけ未成年が誤った決定をしてしまうことの現われなんだよ。だから母さんが主張する、自分での決定というものがあるならば、20歳を超えて仕事を始めたりした中でもう一度決定を下さなければならないと思う。でないと、ただの形骸化した自己決定で意味が無いと思う。

その後も母は反論を繰り返すが、その都度前から理路整然と話を砕く。半泣きの子供が、大人に向かってキックやパンチをしてくるような感じだ。大人としては、「おお、よしよし」という感じで難なくいなせてしまう。そんなやり取りをしていると普段は傍観している父までが私に加勢して子供の決定は子供がすべきだと言ってきた。
母はこれにも驚いたようで、狼狽していた。話自体は修羅場ということもなく終始穏やかだった。母が激高しそうになるときこそ、「冷静にね」と私が一々諭した。喧嘩をしたかったわけではない。思いを伝え自分のとるべき道を伝えただけだ。
最後に母にこういった。

母さんの、母さん(祖母)だってJW信奉者じゃないけど今でも良好な関係で付き合っているよね。だから、宗教と家族の関係は別に考えて欲しいな。僕は、今まで母さんに育ててもらってありがたいと思ってるし、この家に生まれてよかったと思っている。それは本当。だから育て方を誤ったとか、そういう考えにはいかないでほしい。育て方は間違っていないし、感謝もしている。それを解ってほしい。

そう告げてから母とレストランを出た。母は、肩を落とした感じだった。そのまま失意のうちに実家に帰ったらしいが、実家の姉に話を聞くと怒っているというより、茫然自失として抜け殻のようになっているという。なんか、申し訳ない気がするが・・仕方ない。母にうらみは無いしJWだって恨みはない。ただ、この道にいたくないだけ。それだけ。