思い新たに

Arlecchino2006-09-01

 今日から9月世間では新学期というところだろうか。私も決して何かが変わったわけではないが心は少し新たな気持ちで前に進んでいきたいと思った。
 思えばこの夏は色々な事があり家族分裂の危機になった。JWの世界の脆さがよくわかったし、宗教が家族を狂わせる元凶になることもわかった。この心の部分を支配する宗教というものはかなり危険なものだ。
 思えば昔は、一向一揆も宗教が根底にあり、江戸時代のキリシタン農民の反抗も根には宗教が介在していた。それだけ宗教は人の心を左右するものなんだろう。
 母親からは相変わらず、年鑑や雑誌が届いたりして無言のメッセージが続く。このまま母と離れてもいいかななんても思うが、まだ離れる決心が付かない。白黒を急いでつけなくてもいいかもしれない。ゆっくりゆっくり行こう。ここは正念場。兄や姉が結婚なんて事にならなければいいのだが・・・結婚式に私が行かなければならなくなる。
 悩みは尽きない・・JWに限らずだろうが宗教は・・ほんっと悩みの種だ。縁を切るなんて当たり前、子供を殺すことすら出来る気がする。前にした、神が要求したら子を殺すか?という話で、母が仮に殺したとしても自分も後悔すると言っていたが、イサクの例を喜々として話すJWのことだ。イサクを殺すことを例に取って我が子を云々という理屈が成り立ってしまうのが怖い。
 その後責任をとって、親が割腹してくれようが懺悔してくれようが、それはどうでもいいのだが、バーチャルとはいえ我が子を殺す事にAgreeする発想が終わりな気がする。アブラハムを現代のJWど同義に捉えたくはないが、仮にあの話が作り話だとしても、古代人の考える童話はきっついなぁ・・と思ってしまう。
 そもそも、旧約聖書のなかでは残虐な表現が多い気がする。侵略した王国の王の目玉をくりぬいたとか、磔にしたとか、手足を切断するとか、石打にしたとか、石打ったって手軽なちいさい石ではないだろう。漬け物石みたいなものを投石したというから、生殺しに近い。
 そんなことを仮にも平和な神の民がするのだろうか?ましてや、今のJWが信奉するエホバという神の民がそんな仕方で戦争するのだろうか。時代が変わって戦争しなくなったとは実に都合の良い解釈。どーーーーー考えてもオカシイ。誰もこの辺突っ込まなかったがオカシイ。同じ神だとしたらずいぶんとご機嫌が変わる神だ。
 結局、組織や統治体が作った神像が今の神の真の姿とされている。その神が子を殺せといえば殺すよ、それだけの話。カナンとかの子供を生贄にする習わしと発想的には変わらない気がする。神はそんなこと要求しないから・・という逃げは置いておいて、要求されたらするの?しないの?あなた(母親)はするんだよね・・きっと。という話。