現役時代のテクニック

Arlecchino2006-09-13

 今日の日記は現役時代のテクニックについて。真面目にJWをやられた方々には抵抗ある話だと思いますので、そう言う方々は以下を読まれないことをお勧めします。
 エホバの証人で模範的なJWは皆、ある程度の聖書の知識がある。というのは、一部当たっているが一部はずれているかもしれない。私は、正直言って知識はまるでなかった。今ドロップアウトしてから、ドロップアウト仲間と話していると驚かれる。ドロップアウトしてたりいい加減に見える子でも結構聖句を暗記しているものだ。逆に、そんなに知ってたんだと驚いてしまう。
 こう思うのは私があんまり聖書の聖句に思い入れがないからかもしれない。というか今まで一回も聖書の聖句に心打たれたことがない。よく、交わりとかで集まるとおきまりで

好きな聖句はなに?

とか聞かれるけど、あれは非常に困る話だった。私はバプテスマ受ける時ですら、聖句を一個も暗記できずに討議に臨んでいたからだ。
 好きな聖句も無く、ただ、集会場の中で含蓄ある注解をして、人からの羨望を受けるのが楽しかった。野外では引く聖句を予めピックアップしていって、さも引き慣れているかの様に振る舞った。何の集会や集まりでも、注解のテクニックを仕入れるのが得意だった。
 ライブラリが出来てからはもっとそれが顕著になった。注解ネタ素の宝庫であるライブラリは私の予習の手間を大幅に軽減してくれた。ざーっと、書籍研究の範囲をみて、大事そうなところの節にある聖句を片っ端から検索にかけていく、そして、出てきた所をクリックして過去の文献のなかの注解文を見る。
 さすがは過去統治体が作った文だけあって、新しい書籍とは違う角度でその聖句への注解が載せられている。すかさずそこをコピペしてワープロに貼り付けていく。何カ所かピックアップが終わったところで、その注解を今回の書籍に合わせてカスタマイズしていく。
 早いときはこの作業が20分位で終わる。これをプリントアウトしていき、集会場ではそれを見ながら注解する。予習のテクニックはこれで完璧。次はそれが注解できるかの話だが、中堅JWになると、注解にもテクニックが必要になってくる。何故かと言えば、中堅JWは「エホバです」的な簡単な所では指される事が無くなってくるからだ。
 注解は聖霊が注がれて・・という話を子供の頃から聞かされたがそれは嘘だ。一生懸命予習して祈って祈って祈って、その場でも祈って祈って祈り倒してそれでも指されない日もあれば、眠ってて、最後の5分で慌てて手を挙げたら指されたなんてこともあった。あんなのは大人の詭弁であり、人為的な事が要因ではないと印象づける為のテクニックだ。
 ある時期から、私があまり指されなくなった。原因は上述したとおり私の位置づけが中堅になったからだ。今までは指される注解範囲は私より年少や浅学な人たちに移行していき、私は競合した場合指されにくくなったのだ。
 それを感じてから、どうすれば指されるかを考えた。勿論全部手を挙げればいいじゃん。という人も居るだろうが、私はそんな手間の掛かる方法が嫌だった。できれば100発100中が良い。その方が負担が少なく予習対効果*1が高い。
 指す側の心理も読んだ。何回も手を挙げていると指す側は、「また手を挙げてるな・・・」という思考になる。だが、一通り皆が手を挙げ終わった後、珍しい顔が手を挙げていると司会者も「おっ、指してみよう」という気になる。このタイミングを狙って挙げて指されると結構楽しい。何回か繰り返すと、司会者毎の指すパターンも解ってくる。
 それが解ると、上述の適当な予習をして、集会場に行きその日の司会者のパターンに合わせて注解するポイントを絞り、そこで手を挙げて、効率よく指されて効率よく注解をする。予め指されるところが解っているに等しいので、そこで最大限含蓄がある注解をすると聞いてる人は

ここの節もこれだけ深い注解が出来るなんて、他もきっと深く予習しているんだろう。凄い人だ。

という印象が付く、こうなればしめたもので人の評価は勝手にドンドン上がっていく。このコツを掴んでから私の評価はドンドン上がっていき楽しかった。JWを一生続けていくならばこれでも成り立つだろう。勿論心には達していないので・・JW的には何の意味もないのだが心の中まで見る人は居ないから関係がない。結局は皆外で人を計っていた。

注解しない=霊性低い
浅い注解=霊性低い

という図式を見ても解るだろう。結局外見がしっかりしてると人は納得する。
 こういう要領の良さが社会に出ても役立っているので、それについては損した気分にはならない。最小の力で最大限の効果を出す。それが私の人生哲学なのかもしれない。割当の要領良い作り方というのもあったがそれについても折を見て触れたいと思う。

*1:費用対効果を予習に置き換えた。