JW二世的キャリアプラン(兄弟編)Ⅰ

Arlecchino2006-10-04

 最近の世の中はやたらとキャリアを求めて、キャリアを描けとかそういう論調で働いている人間へ迫ってくる。キャリアプランという響き自体についていえば、私は好きではない。何か、高尚なことかのように単語に置き換え、キャリアプランを描かない人間は駄目人間かのように仕分けする、この単語の使われ方が気に入らない。
 勿論どんな人間でも働いていれば、それなりに将来どうなりたいか位は考えているのだろうが、それぞれに程度の差はある。成功者になって社長に・・という人も居れば平々凡々に生活していきたい。など、そのプランは千差万別だろう。
 最近の世の中は、この平々凡々という生き方を非難する事が多い。自己研鑽とか、自己投資とかいい方は違うけど、要は終身雇用は崩壊したから自分を売れるような、役立つ価値ある人間にしていかないと生き残れませんよ的な方向にし向けようとしている。
 この風潮が大嫌いである。世の中の8割は平凡。そして2割の人間が特別で、その人々が世の中の8割を支配している。俗に言う2:8の法則。この法則太古より変わりはない。だから、幾ら平凡な人間がスキル云々言っても結局そこには限界があり、キャリアがどうのこうの言ってもむなしいだけ。
 それに、このキャリアプランは本当に自己研鑽を求めているのではなく、企業が社員の雇用に関して責任を取りたくないから、言い逃れのために出来た風潮と私は考えている。能力主義成果主義、日本版401kとやらも、結局は企業の保身のための制度。それを最近は自己責任という言葉で置き換えて、社員や働く人へ責任転嫁しているだけ。だから、キャリアプランなんてものは、企業即ち世の中の2割の側が考え出した都合のいい論調。
 とまあ、そんな感じに捉えているので私は、キャリアプランが大嫌い。生きていくために、これからどうやって過ごしていくか会社の中での立ち位置や転職も視野に入れた幅広い視野は持っているが、横文字でそれを置き換えたり、夢に日付を入れるとか、一部の天才しか出来ない事は真似しない。大体、今までの人生でそんなことしてこなかったんだから、今日本読んで明日から実践出来るわけがない。
 本当はJW的キャリアプランの話をするつもりだったが大脱線。取りあえず明日へ続く。