神権学校の原稿

Arlecchino2006-11-15

 日本語に限らず語学は難しい。正解がある程度存在するものの、その時々の場面や会話に使うか文書に使うかで表現や使用方法が異なってくる。雑誌の文や新聞の見出しなどは、日本語の表現からすると間違っているものもあるが、それは間違いではなく表現方法だ。何を訴えるかそれが大事なので、文法は二の次になる。
 スピーチの原稿と論文の草稿が異なるのもその一つ。スピーチはあくまでも声を出したときに、どの様に聞こえるかが大事なのであり耳にインパクトが残る表現が必要となる。論文は目に残るようにし、かつ、求められていることは論理性なので華美な表現よりは正しく人に理解させ、説明することが出来るようにするのが目的となる。そうなると、必然的に文の書き方は人や目的により異なってくる。
 この時期結婚式が多く、そのために友人から出し物の制作依頼を受けることも屡々である。会の幹事などならば私の得意分野なのだがスピーチの依頼まで受けてしまった。それも他人のものである。私が読み上げるならば話は簡単だが、私は原案を作り読み上げるのは友人。実に難しい仕事である。会社で言えば社長が読み上げる資料を戦略事業部が作成するのと似ているかもしれない。
 スピーチの善し悪しは読み手のレベルや話し方にも大きく左右される。文字を読み上げるということは思いの外に難しい。神権学校や朗読というのも、やってみると殊の外難しいので驚いたものだ。さらっと読み上げている兄弟達を凄いと感じたもの。字面に気を取られると抑揚が疎かになり、抑揚を気にしすぎると接続が上手くいかなくなる。それらを丁度良くバランス取り、聞き手の耳に心地よく音を送り込むのは至難の技だった。
 友人が作った素案を発展させ、自分なりに友人になりきってスピーチを作り送付したところ、苦情が来てしまった。日本語としてオカシイとか一文が長すぎるとかとかである。じゃあ自分で作れ!と思ってしまうが、この友人は友人で、スピーチ慣れしていないため長い一文をどう読み上げるかのノウハウが不足してるらいし。
 正直過去の経験から言って「てにをは」や「接続詞」などというのは聞いてる方からするとどーーーーーーーでもいいのだ。接続詞なんて一々聞いてる人間なんていない。スピーチでは、よくてにをはを間違えるなんてざらにあること。大事なのは「インパクト」耳に残るかそれだけのこと。地域大会や巡回大会でもつまらなくて眠たい話をする講演者が多かったが、それは何故かと言えばダラダラダラダラと話を話しているだけだからだ。聴取がどういう風に聞けば楽しめるかや眠たくならないか、それを考えている話し手が居なかった。
 私は、自分が話すときは眠たい話ではなく、聞いてる側がワクワクする話をしようと心がけた。その妙を心得ているからこそインパクトがある文として構成したのにもかかわらず苦情・・・・。お礼ではなく真っ先に苦情が来ると人間腹がたつものだ。久々に怒り返してしまった。しかも文はいわば自分の分身それにダメ出しを食らうと尊厳を傷つけられた気になってしまう。逆に思いっきり間違いを指摘なおしてしまった。
 結局は、もう一度友人が作ることになったのだが、いやはや人の文を作るというのは難しい・・・結局人はそれぞれ好みの文体というのがある。性格にも似ているので人の文体を自分に合わせるのが難しく感じてしまう。特に結婚式などのスピーチはそれの最たるものだろう。自分で直すと言い張った友人のスピーチがどう校正されてくるのか・・楽しみなものである。神権学校の原稿作りを思い出してしまう一幕だった。