巡回監督≒マネージメント

Arlecchino2006-11-22

 思えば昔、昔のあるときに、巡回訪問があり、その際に巡回監督から言われた思い出深い一言があった

兄弟は巡回監督に向いてるよ。是非なるべきだ。

当時我が家が宿舎提供をしていて、その際に言われたコメントだった。我が家ははっきりしていて、お気に入りの巡回監督以外の時はまったく宿舎提供に手を上げなかった。巡回監督もベテルの方でどういうアサインメント基準があるのか分からないが、数年置きにあたりとはずれが交互に赴任されるようなイメージがある。まあ、言動だけで一方的に評価される巡回監督という職業も大変なものだろう。
 巡回監督という職業は、特定地域の監督官という位置づけだろう。江戸時代の巡検使に似ているのかもしれない。長老という代官にも似た人々の治政に不満がある人はまずは長老に訴え出るのだが、大概は却下されてしまう。それもそのはず自分のミスを指摘されて喜んで改善する人間などまずい無い。しかも、長老は実質会衆の成員の上に立つ存在だ。上に立つものが下から指示をされることを好もうはずがない。
 そうなると結局、巡回監督という上位権威にある種江戸時代の籠訴的な行動に及ぶことになる。「お願いがございます!」等という感じで巡回監督が乗る籠に向かって直訴を行うのだ。直訴の行為は、あまり過激にやりすぎると訴えた事件の取調べに及ぶ前に組織不敬罪的な扱いを受けて、逆に訴えた本人が抹殺されることがある。仮に訴えがうまくいき聞き届けられても、後日断罪された長老がまだその地位に居た場合は、意趣返しにあうこともあり、なかなかリスクが高い行為であることは江戸時代から変わりない。
 そんなリスクを跳ね除けて果敢に挑んだ猛者が何人かいた。うまくいき、長老を引きずりおろしたこともあれば、意趣返しに遭い会衆の中では差別を受け蔑まれ名誉回復機会が無いまま今でも片隅で、出世傍流コースにいながら会衆にとどまる悲惨な人まで。この手のエピソードはどの会衆でも必ずある話で、この種の事例は枚挙に暇が無い。
 そんな話とは関係ないが冒頭の話。巡回監督に向いている資質として、他人の心情を読む気持ち。物事を客観視できる力。人の笑顔や喜ぶことをモチベーションに直結させられること。それらを私の中に見出して、巡回監督に・・という発言になったようだ。
 当時は霊性などを考えて、とてもじゃないが及ばないと思い笑って済ませたのを覚えている。自分が巡回監督に・・なんて思っても見なかった。他の人にその話をしても「ほら吹き」的に扱われ、「君みたいな平信徒に巡回監督様が、そんなこと仰るわけが無い」と、一笑に付された。親だけが、それを喜び巡回目指せば?などと言っていたので、当時は私も巡回が私を奮起させるために言ったお世辞位にしか思わなかった。だが、今、社会に出て思うのが、この能力は巡回の霊的な資質というよりもマネージメントの資質に近い意味で私に言ったのかもしれないと考えた。巡回監督も言ってみればエリアマネージャーみたいなものだ。上手くマネージメントをして各会衆を治めるのがミッションだ。巡回監督も立派な高級管理職だろう。
 そう考えると、そのとき巡回監督が言った話は的を射ていたと、いまさらながら得心する。社会に出て会社の先輩や上司や周りから、この巡回監督から言われたのと同じ資質があるといわれることが多かった。自分ではそれをJW時代に感じたことが無かったが、まだ学生のうちであった当時からその資質があると感じた、あの巡回監督は見事なものだ。今どこでどうしているか分からないが、そういう視点で私にアプローチし、私に巡回監督らしさを見出したのかもしれない。今となってはそのときのことをその人と話すこともできないが、そんなことを思い出した。