究極の無関心

Arlecchino2007-02-24

 「信じる」ことが大事な宗教。「信じる」ことが無くなれば、宗教は意味がなくなる。その宗教組織の中に長いこと生活していて、長いこと腑に落ちなかったがはっきりとわかったことがある。それは人を「信じる」ということの意味。「信じる」という言葉はきれいごとに言われやすい。だから、きれいごとが嫌いな私は、安易な「信じる」という発言は大嫌いだ。でも、やはり世の中的に「信じる」ことは良いことになっていたので、自分が天邪鬼なだけでやはり「信じる」ことは正しいのかもと迷い考えていた。
 だが、ある本を見てそれは自分の考えが正しかったことを認識した。そこにはこう書いてあった

信じてはいけない疑え。「信じる」という言葉は耳障りはいいが、もう一方の側面を見れば「他人に無関心なことの正当化」である

と。
 他人に関わればそれは、裏切られたりするし他人から傷つけられたりする。それを面倒くさいとして「信じる」という言葉に置き換えて他人に無関心になり、他人がどういう人間かを見極めないで、他人がする行動に目をつぶり現実から目を背けて逃避してしまう。それが「信じる」ということ。「私は○○ちゃんのこと信じてるもん!」よく、日常会話の中で聞かれる重みのない軽い言葉だ。「信じる」ということは究極の思考停止である。
 逆に「疑う」という言葉は一見耳に違和感を感じるが、他人とかかわり、その人がどういう人間かを見極めることができる。仮説と実証と同じで、まず疑ってみてその人がどういう人間か見極める。そして徐々にその相手の人物像というものを自分の中で象る。その作業ができるのが「疑う」という行為なのだ。疑わずに全部信じると他人の中には自分にとって都合の良い他人像ができあがっていく。その自己都合な他人像が、リアルな他人像だと考えてしまうことになる。
 宗教の勧誘やマルチ商法の勧誘をしている人間は上述した「信じる」という行為に徹している人が多いそうだ。自分の頭で何も考えられず、人を「信じる」ことで自分を納得させ、他人に関わりたくないので何も疑わずにひたすら「信じる」のだ。そして「信じる」という行為に酔い他人に無関心になり、他人に対して適当に何かを売ったり何かを「信じる」ように強要する。確かに、「信じる」といった途端、それ以上の詮索や接触をしなくてもよくなる。周りに「信じる」と宣言しさえすれば思考をしない免罪符となるのだ。
 JWの中でもこの事例がよく見られる。JWの教義を「信じる」ことで、それ以上先を考えなくなる。だから、迫害を受けて苦しむ人を見てもそれは信仰のため、とかの一言で終えてそれ以外の良いことにしか注目しない。誰かがJWの教義の矛盾に苦しんでいてもそれを組織の問題とせず、ひたすら他責にし現実から目を背ける。全ては「信じた」結果である。
 JW世界に限らず、たとえば何かの疑いがかかった子がいてその子のことについて話しているときでも、誰かが「でも○○ちゃんのこと信じてあげようよ」と言った途端に周りはそれが真実であったかどうかや、もし嘘だったらどうしたらいいのかという一切の考えることから開放されることになる。だから、人は安易に「信じる」ことを受け入れるのだろう。それに、一般的に「信じる」ほうが正義とか精錬なイメージと同視されることが多い。
 やはり「疑う」という行為は大事なこと。「疑う」ことは人を嘘つきと思うのではなく人を知ろうとすること。「疑う」ことで人間関係が出来上がっていく。どうりで・・・性善説の人は人間関係構築能力が低かったり、空気を読むことが出来ない人が多いわけだ・・・考えることを止めている人たちだから。妙に得心して腹に落ちた感じた記述だった。
 「信じて」他人に無関心になるより「疑う」ほうが何倍も素晴らしいと思う。まあ、でも誤解がないように言えば「信じる」ことが悪いことではない。要は「信じる」という言葉を免罪符にして他人に無関心になるより「疑って」でも人に関心を持つ方が素晴らしいという話。