研修と集会

Arlecchino2007-04-04

 そういえば、今年は4月2日が記念式だったらしく、親からも行くようにとのメールが入っていた。他にも私のことをすっかり忘れていると思っていた所属会衆からもお誘いの手紙が入っていた。もの凄く高級な感じの紙に包んであり。結婚式の招待状みたいだった。貰ってしまうと、申し訳なさがあって行く気が・・・出るわけもなく。そのままゴミ箱行きになった。
 結局、未練がある人ならばこういう機会にもう一回行こうかななんて思うのだろうが、私は全くといっても興味がなく吹っ切れて居なくなっているので、全然戻りたいなどと思わない。行けば行ったで器用だからなんとか立ち回っていけることが出来そうなのだが、そんなことをするくらいなら会社で頑張りたいものだ。
 それはそうと最近、会社で研修を受けることがあったのだが、これが集会と実質的に酷似していることが解った。研修というのは、ビジネスマンを更にもう一段階上に上げるための講習のようなものだと思う。研修を受けて思考が変わって良かったという人もいるし、新しい知識を学べて良かったと言う。
 どこかで聞いた事があるな、と思っていた。そうだJWの集会だ。ビジネスと宗教という違いはあるが、結局新しいことを学ぶ事や考えを変える所に目的意識があるのは同じ。集会が終わったあとの光景のようにこういう事が学べて新鮮だったとか、こういう方法があったとは思いも寄らなかった等を話し合う姿は通じる物がある。
 では、研修を受けてその人がめざましく変わっていくかというとそんなことはない。こういう人間は駄目だ!とか言われている時、それを受講している人間の大半がそれを自分に当てはめないからだ。

○○さんてそういう傾向あったな・・ああいう人にならないようにしなきゃ。

なんて感じで考える人が大半。JWの中でもそうだった。愛を示せといえば、愛を示してない人を批判することはあるけど、その批判の当事者が自戒をすることがない。そんな人間が組織の大半を占めているから組織がそんな感じになるのだろう。
 でも、それが人間な気がする。そう簡単に変化できるわけがない。齢20を過ぎたら人間はそう簡単に変われたりしないのだ。それまで怒りっぽかった人が急に怒りにくくなる訳がない。会社でもどこでもどこでもそういう人は多い。その受ける元が研修か集会かの差なだけ。人間という物はそう簡単に変われない生き物。研修の中にJWに限らず人間そのものの行動を見た気がする。