修羅場ならくぐってきた

Arlecchino2010-08-01

 最近世の中で仕事をしていて、自分が妙に勝負なれしていることに気がついた。JWだったので体育会系に所属したことも無かったし、どきどきするような勝負事に身をおいたことは経験がない。でも、思い出した・・・割当。毎回順繰りで回ってくる割当。お題を貰ってみてみると、やりやすいものとやりにくいものがあり、やりやすいものについてはすんなり作れるものの、やりにくい話題については頭をひねって色々な書籍を引っ張り出してそれでも尚頭をひねった思いでがある。期限が迫る中プレッシャーと戦っていた。
 そして、できない場合は直前までできなくて・・・あせって前の晩寝れなくなりそうなこともあった。宿題くらいしか頭をなやませることがない中学生が大人のようなプレッシャーと戦っていた。我が家はある程度年がいくと、中学位からは親は手伝ってくれなくなり、自分で責任を抱え込みプレッシャーに苛まれていた。
 ああいう経験は、本来子供のころそんなにするものではないので、今考えてみればその当時から締めきりに追われて成果物を作るプレッシャーの訓練になっていたのだろう。そして、最後の仕上げは世の中でいうプレゼンに等しい講話。あの100人とかの聴衆がいる場にいくと、いくら練習してきても、プレッシャーに飲まれて棒読みになったり原稿を飛ばしたり時間を押したりすることもある。でも、そうなったら全ては台無し。逆にあの場で、上手いことやれば拍手喝采に代わる。そんなプレッシャーに飲まれながら割当をしていたことを思い出した。
 ステージの袖で待って、どきどきしながら自分の番を待ったりして、ステージに上るときの緊張感。準備が完璧なこともあったし、不十分なときもあった、でもステージには上らなくてはいけなくて、最後は不十分でも壇上でベストを出すよう努力した。
 社会人になるとまさにその状況におかれる。上からは無理難題が降ってくる。自分でこなせるものもあれば自分では難しいものもある。そんな中、自分でこなせなくてもなんとか自力である程度やりきって結果を出す。その繰り返し。そうか、子供のころからやってきていた、ああいう習慣も・・・今思えば役立っているんだなぁ。組織の知識はすっかり抜け去ったけど、ああいう体で覚えた作業は今でも体に染み付き、忘れることなく今に生きている。これも一応JWやっていたことで得たスキルか。