香織姉妹

Arlecchino2011-02-15

 恐らく、一番結婚を意識して一番結婚に可能性が近かった姉妹が私が地元にいたときに親しくしていた香織姉妹。持田香織似だったのでこう命名する。
 姉妹は、家族である日引っ越してきた。女性家庭だったため、全体的におっとりしていて年頃の女子だらけということで、会衆でも男子から興味を引く存在となった。私はいち早く動き出して、姉妹の家の引越し手伝いや、珍しく自分の親にも手伝ってもらって親から巻き込む形での家族的付き合いに発展させていった。
 香織姉妹とも、例のメール戦法を使って、親しくなっていった。メールで他愛ない話をしては盛り上がり、たまに意味深なことはなして二人で秘密を共有したりして。JWならではの独特の楽しい盛り上がりだった。姉妹に格好を付けるため、集会でも頑張り、奉仕も頑張り、周囲からも認められ褒められ、会衆でも若手の地位を確固太rものとしていた。恐らく動機はともかくJW人生で一番輝いていたのがこの時期だった。
 姉妹の家族とも親しくできたため、2家族だけで泊まり旅行に行ったり、スキーに行ったりしてプールに入ったり海に入ったりして盛り上がれた。ちょっと出かけるくらいはありでも、プールや海に行けるのは自分のJW人生でもなかなかなかった。向こうの親も、かなり積極的で私と香織姉妹を結び付けてもいい、と考えてくれていたようだ。
 JW的にもかなり調子がよかったし、年齢も20代になっていることから一時期は結婚を考えたが、仕事は相変わらずで収入も相変わらず、相変わらずの学歴コンプレックスもある、という点もあり何とかそれを払拭したいという思いが、恋に勝り、結局この恋をあとにして地元を離れることになる。
 離れるときは最後にお見送りに来てくれたが、同時にそれはこの姉妹との恋が完全に終わることを意味していた。向こうの親がしきりに「もう帰ってこないわよね・・」と呟いていたからだ。「そんなことないですよ」としきりに言ったが、大学にいったら4年後にどうなるかなんて、誰にも分からなかったし、姉妹に4年待ってくれ、というのも酷な話だ。
 それから4年後くらいに、姉妹は地元の兄弟と結婚して必要の大きなところに旅立ったと聞いた。最後に顔すら合わせていないので余り想像がつかなかったけど幸せに暮らしているはず。
 世とJWで違うけど、結局自分が結婚したのはこの香織姉妹に性格的にタイプが近い姉妹だった。きっと、この子と結婚していても上手く行ったんだろうなと思う。

いずみ姉妹

Arlecchino2011-02-14

 泰子姉妹と若干期間がかぶるときに交流が始まったのが稲盛いずみ似のいずみ姉妹。いずみ姉妹とは中学生活くらいに彼女がJWになったのでそれで知り合って軽く会話をしたのがきっかけ。やはり特に最初は気にかけることもなくすごしていたが、メールのやり取りがはじまったあたりから親しくなった。
 いずみ姉妹はお兄さんがいたので、そのお兄さんと話す振りをして近づいたものだ。メールでお互い励ましあったりして仲良くなったり、携帯電話代金が気になったけど、ある日徹夜仕事で忙しいとき、休憩中に電話したことがあった。それでお互い深夜に話したりしたので、深夜という時間も手伝い結構キワキワな話もできたりしてとても興奮したのを覚えている。
 いずみ姉妹とはオンラインの交流が多く、姉妹が風邪を引くと私が電話をしてあげたりしてそういう形での交流をしていた。この姉妹とも結婚してもいいかなぁ、というレベルまでは行かなかったので由美姉妹よりは一歩も二歩も下がった気持でお付き合いしていたけど、この姉妹も自分主導で付き合えていた気がする。
 私の場合、ぞっこんで惚れていないと結構大胆なことができてしまう。前述した由美姉妹だの雅子姉妹には決してできないような、病気のときの励まし電話とか、お見舞いに実際行くとかそういうことができてしまうのもあまり意識していなかったからかもしれない。事実いずみ姉妹とは隠れて密会したり、風邪の日にお見舞いしたり、個人的にプレゼントのやり取りをしたりといったことを何回もしていた。
 いずみ姉妹とはかなり長く、こういうやり取りが続いたが、私が地元を離れて大学に行くときくらいを境にメールなども不定期おなり縁がなくなってしまった。風の便りにきくには地元を捨てた人にいつまでも執着してもいけないという判断があったらしい。

泰子姉妹

Arlecchino2011-02-13

 次に恋したのが松雪泰子似の姉妹。仮に泰子姉妹としておこう。泰子姉妹とは、前述の由美姉妹とかとの集団デートのときに一緒についてきてもらうメンバーに入っていた姉妹で最初はあまり気にしていなかったが、たまに妙に艶かしいというか、色っぽい格好をするのでそれにやられてしまった節がある。
 若い男性やっぱりエロには勝てないわけで。泰子姉妹が着る胸の谷間が見える服や、くびれた腰を強調する服などは若い男性にはたまらなかった。泰子姉妹は、顔だけで言えば前述している由美姉妹や雅子姉妹のほうが綺麗だった。でもそれとは違う魅力がありやられてしまった。泰子姉妹とは小難しい話とか、脱JWチックな斜めからJWを見る話とかができたので心の支えになった。
 でも、この恋は私が追いかけているというよりは、私が追いかけられている恋になったためいわゆるメールが帰ってくるかどうかを待つどきどきなどは余りなく、終始私のリズムで恋が進んでいったような気がする。それこそ一緒に二人で出かけたりとかができたのもこの姉妹くらいだ。それはきっと自分主導だったからできた技だったのかもしれない。途中で、親密だったことを気にした私の母親が心配したものだ。なぜ心配したかといえば、その泰子姉妹が父子家庭だったからだ。それも病死ではなくて不仲での離婚による父子家庭。それゆえ結婚生活が上手くいくはずがないと母親に指摘された。
 最初は反発したものの、途中で泰子姉妹が余りにお金や地位への執着がすごいということを知りさめてしまった。幼い頃家で揉め事が多く、お金がない生活があったためそれ故にお金へ執着してしまったようだった。その執着振りを見てとてもじゃないけど自分と会わないと思い恋を終えた。恋のあとも、メールで豆に連絡を取り合ったりして、私がJWを離れる直前まで連絡を取っていた唯一の姉妹である。

由美姉妹

Arlecchino2011-02-12

 この時期と時を同じくらいに、メールが携帯に実装されるようになり、そのために一気に姉妹たちとの距離が縮まった。気に入った姉妹がいればまずはメアド交換をすればいいのだ。そうすればやり取りができる。奉仕の後とかに、お疲れ様、とメールするだけでもぜんぜん話ができる。最初はいわゆるショートメールしかなかったので限られた文字数の中、半角カタカナを駆使して濁点を付けずにメッセージをたくさん送ったのを覚えている。「コンニチハキョウハアツイテスネキョウモオシコトカンハリマショウ」みたいに濁点すら惜しく字数制限を掻い潜っていた気がする。
 次に恋したのは3歳年上の姉妹。PUFFY吉村由美に似ていたので、由美姉妹としておく。由美姉妹はPUFYYみたいな感じで普段着はTシャツにジーパンでノリも良くて明るく健康的な姉妹だった。私が年上ネタでからかうと、ふざけて怒ってくれたりして楽しかった。この姉妹の親とうちの親も気が合ったため、家族ぐるみで食事したり旅行したりすることができた。
 向こうの親も、私と付き合うことはまんざらでもない様子だったのを記憶している。さすがのJWなので、「YOUたち付き合っちゃいなよ」とはいわれなかったが、二人で色々やり取りしてもほほえましく見守っていてもらえ応援してもらえた。他の姉妹たちも連れて、お酒を飲みに行ったりスキーにいったりキャンプしたりランドマークに出かけたりして楽しい2年間くらいを過ごした。無泊の日帰りで出かけたディズニーランドでの皆でのデートは最高の思い出だった。無泊だから泊まりじゃないということで保護者なしで許された。
 CDの貸し借りをして、そのときCDの中に手書きメッセージをお互い書くのが暗黙のルールで、ありがとう、という言葉に加えて四方山話も書いたりして軽い文通なんかもしていた。そのやり取りが当時たまらなく楽しくて楽しくて。他の兄弟達ができてないことをこの姉妹と二人でできるという秘密の共有がたまらなくたのしかった。
 ただ、JWゆえに、さらに一歩踏み込んで結婚を前提に付き合ってと当時の若い私には言えずそれ以上の進展が難しかった。当時私は、収入が少なく結婚してその収入を奥さんに晒すことがプライドとしてできなかった。その当時結構一般のサラリーマン並に稼いでいれば今頃ここでこういう日記を書いていないかもしれない。
 この姉妹とのオチは突然だった。ある日から姉妹のメールの返しが悪くなった。集会でもあまり注解しなくなり疲れ顔に。そして数ヶ月たったときいきなり会衆を移転すると言い出していなくなってしまった。突然だった。親しかった自分ですら聞かされていない別れだった。それから数ヶ月して結果が分かった。その姉妹は世の男性と恋に落ちて妊娠していたのだ。結婚をすぐしたため不道徳という罪に問われることがなくグレーな形でJWを後にした。付き合いだしたのはちょうど私にメールが来なくなった半年くらい前。
 もし、一緒にすごしている絶頂期にプロポーズしていたら、結果は変わっていたのだろうか?とか色々考えたが、タラレバを考えても結果は変わらないので、余り考えないようにした。これが由美姉妹との恋。

雅子姉妹

Arlecchino2011-02-11

 確か最初に恋したのは、同級生の綺麗で頭の良いスポーツ万能の姉妹だった。たぶん100人中100人が綺麗に分類すると思うタイプで夏目雅子のようなタイプ。雅子姉妹と仮にしておこう。
 雅子姉妹は学年でもトップ成績だったので、世の男子からも憧れの的だったはず。同じクラスになったことがなかったので一度もクラスメイトとして接することはできなかった。小中高という間はたまに集会で接して話すくらいだったけど、大人になってから一時期は急接近した。たぶん自分がそう感じただけで向こうは接近とも思っていなかったはず。
 大人になった頃、一緒にグループでスキーしたりキャンプしたりして一緒にすごせる機会が多くなった。それはとても楽しいひと時で、一緒にスキーしたりリフトで隣に座ったり、転んだとき起こしてあげたりとそれはそれは絵に書いたようなJW世界ならではの青春だった。
 だが、この姉妹も突然現れた元べテルの兄弟にあっさりと奪われ、結婚してしまった。今では地元で長老妻としてがんばっているようだ。まだ私がJWだった頃、地元に帰って話したら相変わらずの綺麗さで飄々としていた。そもそも結婚までは考えられるリアルな付き合いではなかったので恋に破れたという感じはなく、いいなぁと思うくらいだった。
 この姉妹と結婚できたら、と何度も思ったものだが、、、結婚したら今もJWだから、なんか複雑だ。

恋は人並みに

Arlecchino2011-02-10

 他の人の日記に触発されて昔の恋についてまとめてみた。自分の恋愛は別に武勇伝などはなく、少し控えめで奥手だったせいもあり、あまり華やかなものはない。いきなり告白されたとかね。また、あまりJWの禁忌を冒したくなかったため、自分は当時の地元JWの立場の範囲内でできる範囲内の恋をした気がする。JWだからまともな恋愛まで発展したのは少なく、世の中的には付き合ってるに該当しない等、片思い含めたり微妙な恋愛をしていた時期も多かった。
 結局私の地元では、「付き合う=結婚までいく」という図式が多かったため、結婚の決意ができない人は、告白の一歩手前で相手の気持ちを確かめつつ昔の中学生みたいな青い恋をしていた気がする。そんな甘酸っぱい思い出を含めての回顧録
 結局地元を離れてしばらくしたら世の人と同じような恋を経験することになったけど。JW時代の想い出も、それはそれでよかったと思う。

どっち派?

Arlecchino2011-01-02

 良く自分が聞かれることに、脱JW派なのか現役JW派なのかどっち派なのだという質問がある。答えとしてはどっち派でもなくて、どっちでもいい派。どっちにいようと、洗脳されないで自分を持っているならばだれでもいい。どっちの立場にいようとも、何かに盲従していたらかなしい事だから。盲従しなければどの世界にいても良い。
 色々な立場でblogを書いておられる方が多いが、私が見ているところではやっぱり信念を持っている人は書きっぷりも楽しいし見ていて心地よい。どんな世界にいても信念は大事。どう生きていくか、どう過ごしていくか。大方針がはっきりしている人としてない人とでは過ごす人生が全然違う。
 脱JWする方もそうでない方も、今年一年また気持ち新たにそれぞれの世界で頑張って頂きたい。私ももちろん頑張って生きていこうと思う。